あの花はいつ枯れるのか。

 


この1年間、公立中学校の教師として勤務させていただいた。


まあそんなことはどうでもよくて、酷く久々のこのブログでは、その中学校の近くの交差点に生けられている花についての話をしたい。私が勤務した中学校近くの交差点には、花が生けられている。十字の交差点なのだが、そのうちひとつの信号機のポールの下に、水の入ったガラスの器があって、そこにその花は生けられている。私はその花が何のために生けられているのか全く知らない。知らないが、交差点に生花が存在すれば、大抵の場合、それはその交差点で誰かが亡くなったことを意味する、ということを、なんとなく知っている。

死者へのはなむけとして生けられているのかもしれないその花は、あまりにも日常に溶け込んでいて、その交差点を通るほとんどの人に認知されていない。

「そういえばあるね」

そんな花である。しかしその花は、一定期間ごとに取り替えられ、今日のこの時間も、あの交差点に存在するのである。

 


「この花はいつ枯れるのだろう」

そんなことを考えたのは昨年の秋だったか。しかし生花が枯れ、朽ちるのは想像以上に早い。私の感覚ではあの花はひと月程度でようやく次の花に取り替えられている。そんなサイクルを横目に見ながら中学校に勤務して、1年が経った。

 


この1年、中学1年生と2年生に様々な話をすることができた。授業を持っているだけの先生なので、基本的には授業内容に関連する話しかしないのだが、その中で色んなことを伝えられた。3学期には、私のやりたかった教育もすることができた。これは校内の他の教員から反発を食らい、修正を余儀なくされたが。

 


私のしたほとんどの話は、多くの生徒の脳内では藻屑になって消え、跡形もなくなるだろう。私だって中学のときに先生が何を話してくれたかなんて、ほとんど覚えていない。教育とは、打ち返してくれないことを知りながらボールを投げ続けるバッティングピッチャーのようなものかもしれない。でも確かに私の中に残っている言葉もあって、その言葉を時々思い出して行動に繋げることが、バッターとしてボールを打ち返すことなのかもしれない。でもそれは、バッティングピッチャーである教師からは時間の経過のために見えない行為となるから、結局教師というのは手応えのない投球を続けるしかないのだろう。

 


100日後に死ぬワニというのが流行ったが、私は自分がいつ死ぬのかなんてことをたまに考える。病を抱えているので、今の病状のまま生きると、50代で血管が破裂する系の何かで死ぬと考えるのが妥当である。ただ、死ぬとは何かということを考えるにあたって、生物的な死をそのまま死とするのは、どこか違うのではないかとも考えてしまうのである。

人と人間の違いみたいな話だが、私がもし人間であるなら、私を知る人が私を忘れ去るまで私は生きているときっと言えるのだろう。移植された臓器が生きているから、あの人はまだ死んでいない…みたいな、感動を要請されているタイプの医療マンガのような話ではあるが。

 


だからそういう意味で、あの交差点で亡くなった人が本当に死ぬのは、あの花が枯れた時ではなく(あの花は枯れてから2週間程度放置されるのがサイクルである)、いずれ花がもう置かれなくなった後に、こうしてあの交差点に花があったことを知っている人が、あの花の存在を忘れたときなのではないか。いや、私はこうしてブログにあの花のことを書いたので、このブログが誰にも読まれなくなるまで、その人は生きていると言ってしまってもいいのかもしれない。

 


駄目だな。私のような、その人がどんな人だったかなんて知らない輩がその生の証を覚えていたとして、そしてそれをブログに書き残したとして、その人を知っている人からすれば、それはその人の生とは別のなにかだろう。

 


あの花はいつ枯れるのか。そんなことを考えられる幸せを、享受していたい。

情報とお金の話。

 

情報は権力の源泉だ、というツイートを読んでそうだなあと思うのと同時に、情報をどこまで他人に渡すのが正解なのだろうと考えてしまうことがある。

契約関係では基本的に相手には最低限の情報しか渡さないことが正解だと思っているので、ビジネスから知り合った人は私のことをよく知らない人が多いしある種それも仕方ないのかなと思う。ただたとえビジネスであっても、人と人との関係というのはどこまでいっても人間関係でしかないので、敢えて私が不利になる情報を渡すことによって信頼を買うこともある。

ある教授が情報と普遍化の話を記していて、昔は普遍化こそが素晴らしいと感じていたが、最近は少し変わってきたと続いていた。研究者としてはどこまでを普遍化出来るのかということに挑戦し続けて欲しいとも思うのだが、一方で普遍化できるものこそが素晴らしいものだろうか、という問題は確かにあるよなと感じている。でもある程度普遍化されたものでないと多くの人に理解してもらうのは難しいし、民主主義社会においてはそれは素晴らしいものとは言えないだろう。

「なんでこのバンドが売れないんだ」みたいなコメントをよくYouTubeで見るけど、恐らく普遍化に失敗しているということがひとつの原因としてあると思う。普遍化しないこと、一部の人にしか理解できないことを価値として売り出すバンドもあれば、それにも失敗して価値をつくり出せていないバンドも存在する。私個人としてはもう少し音楽界全体の収入があがればいいなと思って色々考えているのだけど、ミュージシャン然りクリエイターの中には変化を好まない人も多いので結構めんどくさい。ライブハウスの入場料が500円くらいになれば知らないバンドでも見に行こうと思えるし、仕事帰りにふらっとライブハウスに寄ることも出来るようになると思うのだが、バイト先の人に同じことを話したらライブハウスのプライドの問題だと言われた。ライブハウスとして稼働する日程を週2日にして週5日は飲食店をやればライブの入場料を500円にしても回せると。確かに似たようなことをやっている飲食店も存在はする。でもそれが根付かないのはライブハウスにライブハウスとしてのプライドがあるからだろうと。飲食店のついでにライブハウスをやるような真似は出来ないのだと考えているからだろうと。なんかそれで多くのバンドマンが飯を食っていかれない状況に追い込まれているのならば、本末転倒な気もするのだが。まあ長い目で見ながら考えたいと思います。

私の一部分。


「ミルキー杉山のあなたも名探偵」シリーズ、というのがある。
https://www.kaiseisha.co.jp/special/milky2013/series.html
偕成社から出ている絵本だ。
小学生の頃大好きで、本屋に行っては続編が出ていないか確認していた。

 

なぜ好きだったのかはわからないのだけど、絵の雰囲気と話の内容と、構成と、その全てが好きだった。
絵の作者と話の作者とが別の方なのだが、それぞれの別の作品は好きになれなかった。
全く読む気が起きなかったし、見たくなかった。

 

でもこのシリーズは大好きで、今まで何度読んだかわからない。
最初の『もしかしたら名探偵』に至っては、擦り切れるくらい読んだ。
絵本だし結末も全て覚えているのにさ、何度も読んだ。
なんなんだろうなあれ。自分でもよくわからない。

 

母が図書館司書をやっているのだけど、人気シリーズだから図書館に寄贈してくれないかと言ってきた。
今までも何度か言われたことがあったのだけど、その度に断ってきた。

 

言葉に出来ないのだけど、自分がちぎられるような感覚があるというか…。

 

だけどここ2年くらい物を減らす努力をしていて、いい加減いいかなと思ったので、今日母に渡してしまった。
数年ぶりにインターネットで確認したら、私が買わなくなってから何冊も新作が出ていた。
私が持っていたのは『あめあがりの名探偵』までなので、10冊くらい読んでいない作品があることになる。

 

大好きな本の新作が沢山出ている。
こんなに幸せなことはない。

 

私はもう数年押入れの奥に入れっぱなしにしてしまっていたので、地元の小学生に読んでももらえる方が本もよっぽど幸せだろう。

 

でもこの感覚はなんだろう。私の一部分がなくなるような。

今日のこと。

 

数年前に病気になったのだが、その影響で血糖値がコントロール出来ない。

簡単に言うと今朝の記憶がない。


今日はバイトに行かないといけなくて、いつものように目覚ましを掛けて寝たはずなのだが、目覚めるとお昼前の11時半で万事休す。
鳴った記憶のない目覚ましが、机の上に2つ、綺麗に並んでいた。
でも母と会話した断片的な記憶はあって、雨が降っていると言っていたような。

 

夕食の席で確認したところ、「私は起きるから大丈夫だ」と強く主張したという(それ自体はたまにあることだ、しかし今日に関しては私にその記憶がない)。

 

昼前に血糖値を測ったら、70くらいだった。
この血糖値はかなり低いほうだ。
恐らく低血糖が起きて、自分で自分を制御出来ていなかったのだと思う。
目覚ましも恐らく自分で止めたのだろう。私にその記憶はないが。

 

問題はこれが防ぎようがないことで、私はどうすればいいのか。
母は「バイトだからじゃない?」と言ったが、仮に就職しても低血糖を起こしたら会社を休むに違いない。
シャレにならない。

 

と言うわけで初めて今のバイトを休んでしまった。

良識について。

良識ってものがなにか、私にはわからない。

でも私の考える良識について少し書いてみたいと思う。

 

Twitterにも書いた通り、昨日帰りに研修先の小学生が地元で遊んでいたので声を掛けたらコーラ取られたり荷物漁られたりしたのだが、まあそれくらいのことは別にどうでもいいのだ。

それが我慢ならない大人もいるのだろうし、小学校で研修してる仮にも先生と呼ばれる存在の人間(実際は先生ではない)が、そういう子どもの横暴に対してきちんと指導しなくていいのかという意見もあると思う。
まあそれはある程度そういう意見もありますよねで済むことだし、先生として給料を貰ってる訳でもないから変えるつもりはない。
子どもに関わる大人にそういう人が居てもいいと私は思っているから。

今回書きたいのはそういうことではなくて、その子どものコミュニティの中で、少しだけ過激な子のことだ。
私は取られたコーラを振られようが、まあ別にどうでもいい。
それが子どもだと思うし、それくらいは好きにやってくれ。今日なんかはもうある程度飲んでたしね。
だけど、子どもの中には振った上で中身を捨てる子とか、ちょっと過激な子がいるんだよね。
排水溝に飲めるもの捨てるという発想がなんだかなーと思うのだが、まあ私が子どもの頃にもそういうちょっと過激なことをやっちゃう子というのはいたし、私は流石に捨てるのはな〜と思うがそう思わない人もいるだろうしその基準は個人個人微妙に違うんだろうからまあ別に怒る程でもない。
そういう子もいるねって思うだけだ。

ただこの基準の違いが個々人違うことで追い詰められるのはそのちょっと過激な子の方だったりして、まあ簡単に言うとコミュニティ内で孤立することがどうしても多くなる。
その度にやっていいことと悪いことの基準が微妙に変わって、段々人とあまり変わらなくなってきたりするんだけど。
でもちょっと過激なことをすることがアイデンティティになっている子も居て、それがコミュニティから求められてる子も居て、小学校高学年から中学生くらいで盛大に悩むことになるんだな。

私が興味があるのはそのちょっとした過激さは何に由来するものなのかって所で、簡潔にいうとそれは先天的なものなのか、後天的なものなのか。
具体的にいうと生まれつきの性格なのか、家庭の環境なのか、その両方なのか。
勘だと多分両方なんだけど、そのちょっとした過激さのことを「良識がない」と表現する人がいるんだよね。

「良識」と言われると、如何にも後天的に獲得できそうだし、教育でなんとかなりそうだ。
ただ私の勘によれば「良識」には先天的な要素と後天的な要素の両方があるから、当然、その獲得が難しい人もいる。
そういう人たちを私たちはどれくらい責められるのか、って話になるわけ。
「良識がない」って言葉で切り捨てていいのはどこまでか。

別の話になるけど私は性善説性悪説も取っていなくて、というのはそもそもその善悪って人間が決めたものでしょって思ってるから。
人間は本来善いもので、とか悪いもので、とかどっちもねーよ。
善悪なんて行為の後からついてくるものなんだから、その行為をする前からそれがどっちかなんてわかるわけねーだろお前は神かよ。
まあ善いものと悪いものが自明の理として分かれてるという考えの人には伝わらないのかもしれないけど。
いや善悪は元々分かれてるって考えも、深く考えていくとおもしろいんだけどね。

このどこまでが後天的な「良識」なのかって話は、「良識」だけじゃなくて色んな場面であって、私がこのブログをきちんと続けていくとすればまた出て来ると思う。
タイトルにもしたけど、このブログでは価値について考えていくことにしたいと思っている。
まあ雑記も含めてね。私の価値観がどう変わってきたとかそういうことが後からわかるような記録になればと思っている。
残念ながら続かないかもしれないけど。