良識について。

良識ってものがなにか、私にはわからない。

でも私の考える良識について少し書いてみたいと思う。

 

Twitterにも書いた通り、昨日帰りに研修先の小学生が地元で遊んでいたので声を掛けたらコーラ取られたり荷物漁られたりしたのだが、まあそれくらいのことは別にどうでもいいのだ。

それが我慢ならない大人もいるのだろうし、小学校で研修してる仮にも先生と呼ばれる存在の人間(実際は先生ではない)が、そういう子どもの横暴に対してきちんと指導しなくていいのかという意見もあると思う。
まあそれはある程度そういう意見もありますよねで済むことだし、先生として給料を貰ってる訳でもないから変えるつもりはない。
子どもに関わる大人にそういう人が居てもいいと私は思っているから。

今回書きたいのはそういうことではなくて、その子どものコミュニティの中で、少しだけ過激な子のことだ。
私は取られたコーラを振られようが、まあ別にどうでもいい。
それが子どもだと思うし、それくらいは好きにやってくれ。今日なんかはもうある程度飲んでたしね。
だけど、子どもの中には振った上で中身を捨てる子とか、ちょっと過激な子がいるんだよね。
排水溝に飲めるもの捨てるという発想がなんだかなーと思うのだが、まあ私が子どもの頃にもそういうちょっと過激なことをやっちゃう子というのはいたし、私は流石に捨てるのはな〜と思うがそう思わない人もいるだろうしその基準は個人個人微妙に違うんだろうからまあ別に怒る程でもない。
そういう子もいるねって思うだけだ。

ただこの基準の違いが個々人違うことで追い詰められるのはそのちょっと過激な子の方だったりして、まあ簡単に言うとコミュニティ内で孤立することがどうしても多くなる。
その度にやっていいことと悪いことの基準が微妙に変わって、段々人とあまり変わらなくなってきたりするんだけど。
でもちょっと過激なことをすることがアイデンティティになっている子も居て、それがコミュニティから求められてる子も居て、小学校高学年から中学生くらいで盛大に悩むことになるんだな。

私が興味があるのはそのちょっとした過激さは何に由来するものなのかって所で、簡潔にいうとそれは先天的なものなのか、後天的なものなのか。
具体的にいうと生まれつきの性格なのか、家庭の環境なのか、その両方なのか。
勘だと多分両方なんだけど、そのちょっとした過激さのことを「良識がない」と表現する人がいるんだよね。

「良識」と言われると、如何にも後天的に獲得できそうだし、教育でなんとかなりそうだ。
ただ私の勘によれば「良識」には先天的な要素と後天的な要素の両方があるから、当然、その獲得が難しい人もいる。
そういう人たちを私たちはどれくらい責められるのか、って話になるわけ。
「良識がない」って言葉で切り捨てていいのはどこまでか。

別の話になるけど私は性善説性悪説も取っていなくて、というのはそもそもその善悪って人間が決めたものでしょって思ってるから。
人間は本来善いもので、とか悪いもので、とかどっちもねーよ。
善悪なんて行為の後からついてくるものなんだから、その行為をする前からそれがどっちかなんてわかるわけねーだろお前は神かよ。
まあ善いものと悪いものが自明の理として分かれてるという考えの人には伝わらないのかもしれないけど。
いや善悪は元々分かれてるって考えも、深く考えていくとおもしろいんだけどね。

このどこまでが後天的な「良識」なのかって話は、「良識」だけじゃなくて色んな場面であって、私がこのブログをきちんと続けていくとすればまた出て来ると思う。
タイトルにもしたけど、このブログでは価値について考えていくことにしたいと思っている。
まあ雑記も含めてね。私の価値観がどう変わってきたとかそういうことが後からわかるような記録になればと思っている。
残念ながら続かないかもしれないけど。